質問

 

お釈迦さま

 お釈迦さまは「釈尊」「世尊」「大恩教主釈迦牟尼仏」などの呼び名があります。今からおよそ三千年ほど昔、インドの国、カピラ城の王子としてお生まれになりました。国をあげての喜びの中に父王は「シッタルタ太子」と名づけられました。成長されるにつれて、非凡な才能をあらわされるようになり、一九才のとき、ヤシヨダラ姫という隣国の王女と結婚され、恵まれた生活をつづけておられました。しかし、太子は何故か、このような歓楽の中に身をゆだねることができず、心の中はいつも淋しい苦しい悶えの気持ちでいっぱいでした。人生に対する割り切れない疑問が、青年シッタルタ太子の心の中で深くなり、二十九才の七月、太子は父王やお后や、子どものラゴラを捨てて、王城をぬけ出されました。それは「まことの道」「救いの世界」を求めて出られたのであります。それから六年のきびしい難行苦行をされた末、垢にまみれ皮と骨ばかりになった身体を尼蓮禅河の水に浄め、村の一少女が差し上げた牛乳で元気をとりもどし、仏陀伽 耶の大樹の下に座して、ここで悟りを得なければ死んでもこの座を立つまいと禅定に入られました。

 三十五才の十二月八日、法界を貫く大真理を覚つて仏陀・背尊となられたのであります。この絶対安住の境地を一人でも多くの人々に伝え、ともに喜びを頒ち、地上に極楽社会を築かんとして、伝道のたびに出られました。それから四十余年間、伝道の生涯をつづけられ、八十才、クシナガラ城、バツダイ河のほとり沙羅双樹の下で静かに涅槃に入られたのであります。

 

善導大師(六一三~六八一)

 お仏壇の向かって右側にお立ちになって、腰から下が金色にかがやいて、口からは(空中に)み仏さまがお出ましになっていらっしやるお方が、善導大師であります。法然上人とは五百年も時代の差があるお方でした。しかし、法然上人は「偏依善導」といって善導一師を、お師匠として仰がれたのであります。

 法然上人が四十三才で浄土一宗をたてられたのは、この善導大師の「観経四帖疏」という書物から大悟されたからであります。

 善導大師は、中国隋の大業九年(紀元六一三)泗州に生まれ、幼少にして出家し、二九才の時、西河に道綽禅師を訪ねて念仏のいわれをきかれるや、これを機縁としていよいよ篤く感無量寿経を信じ部会研究の末註釈せられた。「観経四帖疏」五部九巻はあまりにも有名であります。また一生涯、阿弥陀経を写されること十万巻、浄土の光景を画に写されたものは、三百にのぼると伝えられ、「眼をあげて女人を見ず、三十年来睡臥せず、常に行乞して、端居供養を受けず」等ときわめて身を持することに厳格であられました。わたしたちがお念仏の教えに生かされるのはこの善導大師の教えがあったからです。

 法然上人は夢のお告げによって、善導大師のお姿を拝まれたとき、半身が墨染の姿で、腰から下が金色にかがやいていました。これを「半金色」のお姿として遠い昔から、善導大師を半金色の聖者として仰ぐのであります。これ即ち、半金色は弥陀のお慈悲、腰から上の凡夫の姿で、南無阿弥陀仏のすがたをあらわされているのです。大師は、永隆二年(紀元六八一)三月十四日、六十九才でなくなられました。

 

法然上人(一一三三~一二一二)

上人は長承二年四月七日岡山県稲岡の庄にご誕生になりましたが、九才のとき父時国がみな本定明のために夜討に遭って亡くなりました。臨終の枕辺に勢至丸を呼んで「怨みに怨みをもって返してはならぬ、お前は出家してわが菩提を弔い世の中の人々の心に仏のみ教えを説いて、こうした悲劇のおこらぬように世の人々を導いてくれ」との遺言をされたことが因縁となって、勢至丸は叔父さまの勧学、得業の門に入りました。ところが非凡の才能高く、田舎にいてはと当時仏教の大学者の多い比叡山にのぼりました。それは十五才のときであります。洛中洛外に「知恵第一の法然房」と名声がとどろき、ご自身も厳しい修行と清進研鑚、旧態依然とした叡山のみにくい権力争いや、形ばかりの習慣に飽きたらず、青年法然は二十四才で道を求めて山を下り、南都の諸宗に碩学をたずねた後、遂に黒谷報恩蔵に籠って一切を披閲すること五たび、四十三才の承安五年三月、はじめて他力念佛を勧められた高祖善導大師の教えに逢い浄土宗を開かれたのであります。爾来当時の民衆のこころにあたかも飢えたる者が食を求めるように、ひからびた大地に沛然と慈雨が降りそそぐように、念仏の教えは巷にひろまりました。真実であればあるほど、古い体制が崩れんとすればするほど、それだけ試練は大きいのであります。法然は「たとい死刑にかかるとも、このこと言わずばあるべからず」と七十五才で四国の辺鄙にご流罪にあいながらもお念仏をすすめることをやめられなかったのであります。多くの弟子たちも流罪にあい、死刑にかけられながら生命がけで不滅の道を説き示されました。かくて八十才建暦二年正月二十五日、静かにお浄土へかえられたのであります。

法然上人の大師号

「大師」という号は時の天皇から下賜されるものであります。一般に大師といえば、弘法大師と思われていますが、各宗の祖師方にもそれぞれ大師号がさずけられています。中でも法然上人ほど沢山下賜されたお方は他にありません。

圓光大師は 東山天皇  元禄十年正月十八日       西暦 一六九八年

東漸大師は 中御門天皇 宝永八年正月十八年            〃    一七一一年

慧成大師は 桃園天皇  宝歴十一年正月十八日      〃  一七六〇年

弘覚大師は 光格天皇  文化八年正月十八日       〃  一八一一年

慈教大師は 孝明天皇  万延二年正月十八日       〃  一八六二年

明照大師は 明治天皇  明治四十四年二月二十七日    〃  一九一一年

和順大師は 今上天皇  昭和三十六年二月二十七日    〃  一九六一年

  

西山上人(一一七七~一二四七)

 法然上人のお弟子として師の真精神を受け継がれた国師は、きわめて思索的で法然門下では一番ながく師に従え(二十三年)尤も哲学的な西山教義の体系を打ちたて、すばらしく格調高いものとなりました。

 国師は人皇六十二代村上天皇九世の後裔(子孫)源親季朝臣の長男として高倉天皇の治承元年(一一七七)十一月九日に誕生されました。九才の時、後鳥羽天皇の文治元年久我内大臣親公の望によりその猶子となられ、十四才の春、元服の儀式を行わんとする時之をいとい、発心出家の志を起こし遂に養父通親公を説き伏せ、吉水の法然上人の門に入り、善恵房証空と号されるようになったのであります。

 国師は深く名詞をいとい篤く法然上人に師事し沢山の著述をのこされ、建久九年三月、法然上人が九条殿下、兼実公の御懇請によって選択本願念仏集を選集せられる時、数多くの門弟中より選ばれて、勘文の役を受けられたことは有名であります。やがて選択集が電化に進覧せられる際、殿下より「上人の御入滅の後、此の書に不審の点あらば、誰に問いて決すべきか」とのおたずねに、法然は、吾が弟子善恵房と申す僧に所存の趣を悉く命じおくよし申されたと伝えられています。この時国師は二十三才でありました。爾来三十六才の春法然上人と死別されてからは、西山義峰寺の往生院に移住せられ、ここにおいて専ら浄土他力の教旨宣揚につとめられました。

 西山国師と呼ばれ、また西山狭義と呼ばれるのもその故であります。

後嵯峨天皇より、弥天酷使の勅号を賜り、また、死後寛政八年(一七九六)には鑑知国師の号を賜わっております。

 

真空上人伝(千八百六十~千九百三十八)

総本山光明寺第六十九世法主真空諦承承認聴翁大和尚は近代にまれな高僧として、今日の「西山浄土宗」中興の祖として、宗内はもちろん、日本仏教界としてもわすれられない学徳兼備の名僧です。

 上人は、和歌山県日高郡南部川村熊岡の貧農の家に生まれ、篤信の父、関本久七翁とともに菩提示の清掃奉仕をしつつ、本堂より聞こえる読経で「お経」を全部暗じたという程、聡明であり、また仏にも目ざめたお方でした。十才有余にして、超世寺諦順上人の門に入り剃髪せられ、二十四才で、師籍超世寺の住職となり、続いて、和歌山市の梶取、壇林(学問所)総持寺の法灯をつぎ、五十八才の時、一宗の要望により、京都総本山光明寺に晋山せられたのです。

 上人は、宗学を本山専門寮で学び、高野山にて密教を、奈良において唯識、華厳を更に東京に遊学して、宗教哲学を究め、内外の典籍をあさって本宗の宗義を鮮明にされた。また幾多の著述も残されていますが、特に「信仰講和」「信仰と実践」は、本宗の教えを人々に伝える宝玉として現在にも輝いています。

 また、女子教育の切実なることも痛感され、大正十二年に和歌山市に修徳高等女学校され「四恩」を校訓にかかげて女生徒の宗教々育に意をそそがれました。

 晩年、田辺市に願成寺を建立され念仏三昧の余生を送られていましたが、昭和十三年十一月六日、当寺において、七十九才の法寿を完うされ衆僧の見守る中、眠るが如く静かに大往生をとげられました。

六時礼讃

最朝の無常偈

諸衆等 聴きたまえ晨朝無常の偈を説かん。
寂滅の楽を求めんとおもわば、當に沙門の法を学ぶべし。衣食は身命を支うればたる。その精粗は衆に得るに随せん。諸衆等よ今日晨朝。各々六念を誦したまえ。

  日中の無常偈

諸衆等 聴きたまえ日中無常の偈を説かん。
人生けるとき精進まければ喩えが樹の根なき若し。華を採りて日中に置かんに能く幾時か鮮やかなることを得ん。人命も亦是の如し。無常は須臾の間なり。諸の道を行むる衆に勸む。勤修めて乃ち至りまえ。

  日没の無常偈

諸衆等聴きたまえ日没無常の偈を説かん。

人間怱々衆務を営み。年命の日夜に去ることを覚らず。燈の風中に滅んこと期り難きが如く。忙々六道は、定趣なし。未だ解脱して苦海を出ることを得ず。何ぞ安然して驚懼なきや。各々聞け強健やかに力あるの時、自ら策ち自ら励まして常住を求めたまえ。

  初夜の無常偈

諸衆等聴きたまえ初夜無常の偈を説かん。
煩悩は深くして生死の海には辺なし。苦を渡るの船は未だ立たず。
何ぞ楽んで眠りにふけらん。勇猛精進につとめ心を摂めて常に禅に在りたまえ。

 

一枚起請文

 もろこし我朝に もろもろの智者達のさたし申さるる観念の念にもあらず また学問をして年の心を悟りて申す念仏にもあらず ただ往生極楽のためには、南無阿弥陀仏ともうして疑いなく往生するぞと申す外には別の子細候はず 但し三心四修と申す事の候は 皆決定して南無阿弥陀仏にて往生すぞと思う内に籠り候なり この外におく深き事を存ぜば二尊のあわれみにはずれ 本願にもれ候べし 念仏を信ぜん人はたとい一代の法をよくよく学すとも 一文不知の愚鈍の身になして 尼入道の無智のともがらに同じうして 智者のふるまいをせずしてただ一向に念仏すべし 證の為に両手をもって印す

 浄土宗の安心起行この一紙に至極せり 減空が所存此の外に全く別義を存ぜず 滅後の邪義をふせがんがために所存を記し畢んぬ

  建暦二年正月二十三日          源空 在御判

 

厭穢欣浄

四生無常の形、生あるものは死に帰す。哀れなるかな電工の命、草露の朝を待つが如し。悲しい哉風葉の身、槿花の朝にして夕に到らざるに似たり。五蘊の仮舎に旅客の主、六趣を指して中有に生を求む。幽魂は無常にして独り逝き代れば、質は山拓に残り骨は野外に曝す。人中・天上の快楽は夢中にして幻の如し。八苦の悲しみ忽ちに来り、五衰の患へ速に到る。地獄畜生の果報は業に依って感ず。八寒・八熱の苦みを受け、残害、飢饉の患へあり。或は鉄杖骨を摧き、刀林膚を割く。眼には獄卒呵榜の親○質を見、耳には罪人叫喚の声を聞く。是の如く火・刀の苦み間無く、億々万劫にも出がたし。愚なる哉、一旦の名利に依って永く三途の沈淪を受んこと。拙い哉。此度生死の苦海を出ずんば未来何んが菩提の彼岸に到らん。速に三界六道を厭ひて、常楽の門に入べし。(五段鈔)

 

「法然上人 御歌」

○     月影のいたらぬ里はなけれども

    ながむる人の こころにぞすむ

○     露の身はここかしこにてきえぬとも

    心はおなじ はなのうてなぞ

○     阿弥陀仏にそむる心の色にいでば

    秋の梢のたぐひならまし

○     身と口と意のほかの弥陀なれば

    我をはなれて となへこそすれ

 

「西山上人 御歌」

○     生きて身をはちすの上にやどさずば

    念佛まうす 甲斐やなからん

○     たたらふむ鋳物師が鋳型土なれど

    なかに黄金のほとけまします

○     なむあみだ ほとけの御名と思ひしに

    唱ふる人の 姿なりけり

○     山賎の白木の合士そのままに

    うるしつけねば はげいろもなし

鎮勧用心

ねむりて一夜をあかすも法仏修徳の内にあかしさめて一日をくらすも弥陀内証のうちにくらす。機根つたなくとも卑下すべからず仏に下根を摂する願います。行業ともしくとも疑ふべからず経に乃至十念の文あり。はげむもよろこばし正行増進の故に。はげまざるもよろこばし正因圓満のゆゑに。徒に機の善悪を論じて仏の強縁をわするることなかれ。不信につけてもいよいよ本願を信じ懈怠につけてもますます大悲を仰ぐべし。
            
聖徳太子 十七条憲法より

○     和を以て貴しとなす

○     篤く三宝を敬え、三宝とは仏と法と僧之なり。

○     悪しきを懲し善きを勧むるは古の良き典なり。

○     信は是れ義の本なり。

○     忿を絶ち瞋を棄て人の違うを怒らざれ。

○     夫事は独り断む可からず、必ず衆と与に宜しく論うべし。

○     人皆心あり、心各々執あり、われ是とすれば、彼は非とし、彼、是とすれば即ち我は非とす。我必ずしも聖にあらず 彼必ずしも愚にあらず、共に是凡夫のみ 是非の理 なんぞよく定むべき。

  

真空上人のお言葉(その1)

 時は遷り、世は変わり行くとも、人の心の光となりて、現当二世の行方を導き給う箕田大悲の御心に於ては、毛頭かわり給うことなきは言うまでもなきことなり。

 ひそかに惟うに長夜の闇にさまよえる我等凡夫は、念々歩々深き恐怖の念に襲われ苦悩しばらくも、やすむ時なし。

 これを、みそなわし給える、弥陀如来は、たちまち救いのみ手をたれ、あまねく大悲の光を放ちて、来たれ、迎えんとのたまえり、我等は大悲の み心に信順し、彼の大悲の一力によりてこそ、往生はすれど、こころの安堵をかたくし、やがて、自己の身分相応に、止悪、修善、利生の道に遵行するは人道としても、往生人の行事としても、実にその本分をつくすものと言うべし。(信仰の友より)

 

真空上人のお言葉(その2)

 阿弥陀仏の心を領納して、我が心の暗を照らすこと恰も闇夜に燈火を得たるが如き風情にて、忽然として願力の道開け、やがて彼岸に到ることの遠からざるを確信し、自然心も広く体も豊かに、この上ない安堵の思いに住し喜び極りなき状態を示すは、これ安心の要旨なり。

 慈悲の御心を信念の基礎となして、止悪はもちろん、分に応じて、修善、利生の志を励まし、四恩に報答する心操を専一として、いささかにても人格に光りの現われたるはこれ起行の姿なり

 かくの如く、安心、起行の具備したる人を、念佛の人と名づけ、此の人を、人の中の花とも、菩薩とも称するなり。(信仰の友より)

 

真空上人のお言葉(その3)

 「信仰八ヶ条」

1、如来は、生命の親なり、我等を慈悲の懐に入れたもう。

2、如来は、慈悲の主なり、来りて我等の胸に入りたもう。

3、如来は、清き宝珠なり、煩悩の濁れる水を澄ましたもう。

4、如来は、歓喜の友なり、慎れる我等を慰めたもう。

5、如来は、智恵の光りなり、愚痴の我等に智恵を授けたもう。

6、如来は、功徳の主なり、貧窮の我等に宝を施したもう。

7、如来は、荒野の守りなり、邪魔を防ぎて我等を譲りたもう。

8、如来は、苦海の船なり、我等を浄土の彼岸に私たもう(信仰の友より)

    

真空上人のお言葉(その4)

 「頂礼偈」

仰いで大慈弥陀尊を頂礼し奉る―大慈は広大にして思議し難し

往生の花は慈悲より開く―慈悲は実にこれ往生の種なり、

慈悲を信ずる心を信心と言う―信心発動して歓喜生ず、

歓喜の生ずるところ仏名を称う―仏名を称うるところ善心生ず、

謂く、止悪、修善、利生これなり―かくの如く信じかくの如く行ずるを、

即ち、信行両全の人となすなり、―重ねて大慈弥陀尊を頂礼し奉る(信行の友より)

             

真空上人のお言葉(その5)

如来を信ずるものは    如来の御恵に預る

如来を信ずるものは    如来の御護に預る

如来を信ずるものは    如来の御導きに預る

如来を信ずるものは    如来の御慰めに預る

如来を信ずるものは    如来の御国に生まるる

 

阿弥陀仏(あみだぶつ)

 語源は、梵語の、アミターの音写です。」「ア」は「……では無い」という打ち消しの言葉で、英語のnotに当たります。「ミター」は、量るということです。即ち両方で、量ることが出来ない、→量れない程度大であるということになります。

 お経には、無量―偉大で量れない。無辺―大きくて涯がない。無対―偉大でくらべる物が無い。無礙―偉大で何物にもさえぎられない。超日月―太陽や月よりも、より偉大である。等十二通りに説明されています。(十二通りは無量光の説明です。十二光佛)

 仏の名としては、無量寿―アミターユス。(無限の生命、生命の親さま)と、無量光―アミターバー、(無限の慈悲、偉大なる智慧)と言うことです。

 

阿弥陀仏(あみだぶつ)

 アミタ、とは、西山国師のおことばによりますと、「光明無量なるが故に阿弥陀と名づけ、寿命無量なるが故に阿弥陀と名づく 縦に寿命無量なれば三世に亘りて衆生を摂し、横に光明無量なれば十万に遍じて衆生を度す、所詮摂衆生の願の極まるところを阿弥陀と名づくるなり」と申されています。

 時間と空間の接点に在る私を「南無」と言う、(南無とは帰命―すべておまかせする意―)、我執を離れて、全宇宙の大生命を感得するとき、南無と阿弥陀が一つになりたる姿を「南無阿弥陀、ほとけのみ名と思ひしに称ふる人の姿なりけり」と、この身このままで仏となることの意義が含まれています。「永刧(時間)と無限(空間)の中に呼吸する一微塵ありわれと名のりて」、我執煩悩にまつわられたままで、ほとけに救われていく仏のねがいに生きる人となりましょう。

 

阿弥陀仏(あみだぶつ)

 ほとけさまといいましても沢山のほとけ方がいらっしゃいます。この仏がたは皆、それぞれに誓願をたてて成仏なさった方々です。この中で阿弥陀ほとけは、凡夫のわたし共を救わんとして四十八願をおこして、長載永劫のご修行を積まれ「この誓願、ことごとく成就せずんばわれ仏とは成らじ」と誓われたほとけさまで「凡夫往生」を本願として成られた仏さまですから、仏になられたことは即ち凡夫が救われたことになります。この本願成就と同時に凡夫のわたしが、煩悩具足のこのままで救われていることに目ざねばまりません。南無の凡夫と阿弥陀の仏とが一つになった姿が「南無阿弥陀仏」なのです。言わば、子の為にいのちをかけた親さまが、子が救われたとき、親さまが安堵するのと同じで凡夫の私には切っても切れない因縁深き仏さまです。

  

観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)

 民間辛苦尾の中でもっとも親しまれ普及しているのは観音信仰であるといっても過言ではありません。特に西山三十三ヶ所の観音霊場など御詠歌でも有名であります。

 観音菩薩とも、観自在菩薩とも言われ「世間の音を観」と言う意味で、苦悩にあえぐ一切衆生のなげきや叫びをお聞き入れ下さって共に悩み、共に泣いて下さる、大慈の総称として、仏の位から、菩薩の位におりて、娑婆にお出ましになり、五濁悪世に苦しむ私達を仏のみ国へ往生せしめんとの阿弥陀仏の本願を体して、実践行動に働いて下さる使者であります。そのこころは、千手千眼、三十三応現と、すべての人々の心に応じて現われ下さる菩薩さまです。阿弥陀如来の左脇士として、お慈悲をめぐんで下さるお方であります。

 

勢至菩薩(せいしぼさつ)

 勢至菩薩は阿弥陀如来の智恵を、おさずけ下さる右の脇にお立ちの菩薩であります法然上人のご幼名を勢至丸と申されたことも不思議な因縁で、「智恵第一の法然房」と私どもは、法然上人を勢至菩薩のご化身と仰ぐのであります。

 阿弥陀如来を中心に、向かって右に観音菩薩、左に勢至菩薩がお立ちになっているのは、慈悲、智恵、円満具足の阿弥陀仏のご本願をあらわされたものであります。

 我が宗では、弥陀、観音、勢至を「三尊一体」と申しまして、そのころは、弥陀一仏のご誓願を、慈悲と智恵とに示されたのであります。言いかえますと、阿弥陀親さまのこころは、母の慈悲と、父の智恵とが円満具足して、子供である衆生が救われて、親さまのふところに安住するこころを示されたのであります。

 

浄土(じょうど)
 浄土という字の意味は、きれいな所と言うことですが、仏教用語として使用する時は、み仏さまの国、極楽浄土をさして言います。

 「厭離穢土、欣求浄土」と言う言葉があります。穢土とは、けがれた世界ということで現世をさします。この国を離れて浄土に生まれることを願うという意味です。

 平安時代の末期には貴族階級が没落して、武士の勢力が台頭し、暴徒の横行に加えて天災、疫病の流行、政情の不安等が重なって末法思想が広まって、現世への絶望感が強まり、浄土信仰による極楽浄土への安楽往生を願う人が多くなって来ました。浄土は、「三部経」に詳しくとかれていますが、人間にとって、最上の楽土のことです。

 

浄土(じょうど)

 宗祖、法然上人が「選擇集」という書物の冒頭に「聖道、浄土の二門を立てて、しかも聖道を捨てて正しく浄土に帰する」云々と書かれています。

 この聖道というのは字のとおり、ひじりの道であって、修行に修行を重ね、勉学に勉学を重ねて、覚りの境地に至る難行動であります。これに対して浄土と言うのは、やさしい道のことで、易行道ともいいます。お念仏の教えのことです。だれもがやすやすとはいれる道、信ぜられる道、救われる道であります。勅修御伝に「われ浄土宗をたつる心は凡夫の報土に生まるることを示さんがためなり。」と法然上人がいわれています。浄土宗とは、この人間再興の理想の国に、永遠に、しかもいきいきと生きることを教え、しかも凡夫がたやすく入信することの出来る教えをとく宗派であります。

 

往生(おうじょう)

 「住」とは「ゆく」という字、「生」とは「うまれる」という字で決して死ぬことではありません、浄土へ往きうまれるという意味であります。「往生」に対して「成仏」ということばがありますが、悩み多い凡夫はとうてい仏に成ることはできません。昔から「成仏は難しといえども、往生は得易し」と言われています。浄土門では「往生」といって成仏とはいいません。聖道門では、自力修行によって煩悩を断って仏に成るというのでありますが『煩悩を断てとはのらず、乱れたる心もゆるし、人間の性のまにまにみ仏の国に往く生く、この道は誰れかひらきし慕わしの情ある、われ等が阻止や』と讃えられているように、このままで仏の国に往き生く、ことが往生であって困ったことや行きつまったことにつかわれることは改めたいことです。

 

至誠心(しじょうしん)

 わが宗の新国の要は、人生々活の意味合いを明確に定め、不安のない信念に安住するところに意義があります。不安な人間生活に確かな阿弥陀仏のお慈悲をいただくこと、これを安心領理の人といいます。

 安心とは、志誠心 深心 回向発願の三つの心から成り立っています。この三つを三心といいます。志誠心とは、「志とは真なり、誠とは実なり」といわれるように。真実心、正直の心 飾らない姿です。外面はまじめを装い、如何にも善人らしく賢ぶっていますが、実は虚仮不実の固まりです。ありのままに、出来ないことは出来ないと知る正直の心、素直な心にこそ仏の真実が至るのです。自力で誠を至すのではなく、ほとけの側から「至れる誠の心」を志誠心というのです。

 

深心(じんしん)

 深心とは深く信ずる心であります。わたし達の心をどれほど深く掘り下げても、究めても、信じ切れないのがこの心であります。

 善導大使は「二種の深信」と分けて一つは機の深信、二つは法の深信として、わが身の悪にめざめ、徹底してほりさげたところに真実とて一つもなく罪悪深重のわが身なりと懺悔しつくした信心と、法の深信とは、阿弥陀仏の本願によって救われているわが身なりと信じて疑いなく、仏の願力にまかせて、往生間違いないし、と信ずる心をもつようにすすめられました。この二つはたがいに表裏一体の関係であって、他力信仰の中核をなす重要な信心の姿でありますから、一片の筆舌では到底あらわすことのできないものであります、この点、誤解のないようにお願いします。

 

回向発願心(えこうほつがんじん)

 回向とは「まわりむかう」と書きます。発願とは「ねがいをおこす」ということです、即ち無自覚、無反省のままでいきてきた凡夫のわたしたちが、仏の真実によって人生の意義にめざめ、仏の願いに生きようと志向する信心をいうのです、西山国師は「念仏によって極楽に生きることを得べしと思い定めたる心は回向発願心なり」といわれています。凡夫の心にほとけの真実が宿り、安心決定できた上は、如何なる人生の苦難にもめげず、雄々しく生きぬくことのできる姿を示されたものであります。

 以上 志誠心、深心、回向発願心、の三心は念仏者の要のこころを、始、中、終の三方面から明らかにしたものであり、そのこころは、すべて「南無阿弥陀仏に籠り候なり」と、法然上人は一枚請文ではっきり示されています。

 

四修(ししゅう)

 わが宗では五重相伝を受けると、念仏者の生活態度として「作業」という日常の心得を授けられます。それを四修といいます。

一、恭敬修 何事にも驕慢心は進歩向上をさまたげる敵であり、素直な敬虔さをもって丁重に修するところに信仰が生きてきます。

一、無余修 どんな修行でも雑念や横道に迷っては成就しません。他心なくただ一筋に一道無二と心をこめてお念仏をよろこぶことです。

一、無間修 懈怠心を一切すてて、絶えまなくつねにお念仏の中に生かされていることです。

一、長時修 一時的感興でなく、念仏をもって一生涯退転しない決定の信念で勤めることです。

  

修行無常―すべてのものはうつりゆく、とは第一の法印なり―

 「色は匂えど散りぬるを、わが世誰ぞ常ならむ」という「いろは歌」は、涅槃経というお経から、大和ことばにわかりやすい一般生活用語として訳されたものであります。うつりかわるすがたは、原因と結果の法則でうつり変わるのであって、それは例えば、草の芽はいかにしてその芽が出てきたかをみると、それは種子(因)と、それに土壌や日光や水分をその他のものが条件(縁)となって、芽という果が生じたのであります。果はまた次のものの因となって縁がはたらいて新たな果を生む、こうしてすべての事象は、因縁、因果の道理にもとずいて、生じたり滅したりしながらうつり変わる相を諸行無常というのであって、仏教の第一の法印とされています。

 

諸法無我―このよにあるものひとりあらず、とは第二の法印なり―

因に作用する縁は、いわば無限の条件の集まりであって、土壌、日光、水分などの本元を限りなくたずねますと、それはついに全宇宙的なつながりをもっているものであります。しかも、「因」といっても、初めから単独な因といものはなく、さかのぼればそれは一つの果であって、それに先行したところの前の因と縁が和合したものであったことになります。いわば縦(時間的)にも横(空間的)にも無限のつながりによって現在のすがたがあるわけです。すべては相依り、相関係しているもので、一つとして単独に存在するものはないという深い内観が仏教の第二の法印として、これを諸法無我というのであります。

 

涅槃寂静―おのれなきものにやすらいあり、とは第三の法印なり―

 諸行は無常なり、諸法は無我なり、というこの二つの世界観(考え方)の上に立って、一切の物、事、人、に対して「我執」を離れて、そのものに即応してゆくところにこそ安らかで寂かな人生の境地が体得されます。ここを仏教の理想境とするところで涅槃寂静というのであります。

 

三法印(諸行無常、諸法無我、涅槃寂静)

 この三つの基本的な考え方が、三法印といって、いわば仏教の旗印であります。この三つの考え方の上に立っているものは、どんな言葉で説かれていても、それは仏法であります。またその三つの考え方と、どこか違うところがあれば、どんなに似たような言葉で説かれていても、それは仏法ではありません、仏教の基本的な物差がこの三仏法であります。

 

他力本願(たりきほんがん)

 他力本願とは、「アミダ仏の本願」です。「人々に幸福を得させよう」と、いうアミダ仏の救済、親心、慈悲、智恵のことなのです。

 三部経の一つ、無量寿経には「アミダ仏の本願」を、四十八とおりに分けて、書かれています。そしてその中の第十八番目の願いを特に中心と考えられ、それを念仏往生の願と言っています。

 

修正会(しゅうしょうえ)

元旦に修する仏教行事であります。昔から「三元」と称し、年の元、月の元、日の元として最も祝すべき吉祥の佳日であります。仏教は、ながい間に本来の精神が失われて、人生の暗い面や、悲しいことのみに取り入れられて、希望的かつ躍進的な大切な面がかくされてしまいました。わたしどもの生命の根元である阿弥陀仏のみ前にぬかづき、親、ご先祖のいる菩提寺に、檀信徒一同が元旦のこころを正し、生命の尊敬に合掌して、新しい年の始めに誓願をたてることの意義は重要であります。

「初めもよく、中もよく、終わりもよかれ」と、初中終一貫して、正行にはげむところに、仏教徒、念仏者の生活があります。初めのこころが終始一貫する大切な節として、必ず修正会をつとめるべきです。

 

涅槃会(ねはんえ)

 二月十五日は、お釈迦さまが、お亡くなりになった日で涅槃会といいます。涅槃と言うのは、吹き消すこと、または吹き消した状態を言います。迷いの火を焼きつくして悟りの境地に至ることです。

 インドの北方ガンジス川の側のクシナーラという町の郊外、沙羅双樹の林の中で、アジアの聖者は八十才を一期として静かに亡くなられたのです、誰かこの世に生をうけたもので、永久に死の訪れをまぬがれ得るものがありましょうか。諸行無常、この大きな真理の中に、偉大なお釈迦さまも素直に身をまかされたのです。「なすべき事をなし終わり、語るべき事を悟り盡され」ローソクの火の燃えつきて消えるように、いとも静かに、頭を北に顔を西に向けて涅槃に入られました。

 

彼岸会(ひがんえ)

 インドの古い言葉ではパーラミターといい、正しくは到彼岸といいます。即ち、私達の住んでいる悪と苦しみの境界(此の岸)を離れて、迷いの川を渡り、苦のない境地、悟りの境界(彼の岸)へ行く(到る)という意味です。この迷いの川を渡り切る方法として、六つの修行方法が教えられています。その六つの修行とは、
一、布施(ふせ)おしみなく与えよう、物でも心でも

二、持戒(じかい)正しく生きよう、人間らしく

三、忍辱(にんにく)堪えよう、どんなことにも

四、精進(しょうじん)努めよう、自分の力一ぱいに

五、禅定(ぜんじょう)落ちつこう、念仏をとなえて

六、智慧(ちえ)目覚めよう、仏の道に

以上のような心がけで彼岸に到るのです。わが浄土門では、六字のお名号、なむあみだぶつの生活にずべてがこもっているのであります。

 

降誕会(ごうたんえ)「花まつり」

四月八日、お釈迦さまの誕生日のお祝いを降誕会と申します。また別名「花まつり」とも言います。いつの時代に誰が名づけたのかわかりませんが、お釈迦さまの誕生をお祝いするのにもっともふさわしい名前であり、すばらしい命名です。

 右の手で天を指し、左手で大地をゆびさして立つお姿、「天にも地にも、我ひとり」、この言葉は、三千年たちました今日でも、決して無視することの出来ない大事な言葉です。お釈迦さまは、八十年の生涯を通じて、人間の尊さ、生命の不思議さを、教え導かれた方なのです。「人は生まれながらにして尊し」この一句こそ、お釈迦さまの一台を通じての、み教えに通ずる言葉なのです。

 

盂蘭盆会(うらぼんえ)

 盂蘭盆会とは、梵語のウランバーナーの音写です。倒さまにつるされるような苦しみをのぞくと言う意味で、お釈迦さまのお弟子目蓮尊者が、母親の餓鬼の苦しみを救った因縁にもとづいています。併せて先祖のみ霊をおまつりする我が国では、正月と共に二大節季となって国民の生活の中にとけこんだ大行事です。

 

施餓鬼会(せがきえ)

  施餓鬼会とは、お盆の中の行事です、餓鬼のため種々な飲食を施し、陀羅尼経を読んで救ったというもので、同じくお釈迦さまのお弟子阿難尊者の因縁話にもとづいてお勤めします。

 母を救い飢餓を救ったそのうれしさに、人々と共に輪をつくっておどったという故事にならって盆おどりと言う行事があり、人々に親しまれています。

  

十夜会(じゅうやえ)

 お十夜会というのは浄土宗門のお寺に限ってつとめられる法会で、正しくは、旧暦十月六日から十五日までの十日十夜の間、引き続いて修する念仏会であります。これは大無量寿経の「ここにおいて善を修すること十日十夜なれば、他方諸仏の国土において善を為すこと千歳するに勝れり」とあることにもとづいてつとめられるのであります。わが国では後土御門天皇の勅許により、鎌倉の光明寺で修したのがはじまりだと伝えられ、それ以来、年中行事として欠くことのできない法要です。ところが、近年は一日一座でつとめることが多くなりましたが丁度みのりの秋の頃ですから、天地自然の恵みに感謝して、報恩念仏のまことをささげ、無量寿のいのちに生かされていきるよろこびをわかち合うところに意義があります。

 

西山忌(せいざんき)

 宝治元年(西暦一二四七)十一月二十六日、七十一才にて大往生をとげられた流祖西山証空上人の御祥忌を「西山忌」といいます。

 十四才で法然上人の弟子となり、数多い門弟の中でも、すばらしい学僧として上人に仕えること二十三年、善恵房とも称し、天性極めて思索的で法然上人の教えを一層深く体系づけ、浄土門中独特の教義をうちたてられたお方であります。故に昔から西山浄土宗の教義を「軒端三尺気高き法門」と称される所以であります。

 師の法然上人の御忌は春であり、その弟子、西山上人の御祥忌は秋にあたるので、春秋二回、わたしどもの教えの親として、この両祖師のご命日に報恩感謝のまことをささげて、大法座をつとめるのであります。

 

成道会(じょうどうえ)

 十二月八日は、お釈迦さまが、弐連禅河のほとりで笠のように枝を伸ばした菩提樹の下の大きな石の上に坐して「我いまさとりを得ることが出来ないならば、生きてこの座を立たぬであろう」と、かたい決心をして、六年間の長い求道のはてに、ついに人生の真理をさとる覚者となられた日であります。

 時に太子三十五才のこの日、夜明けの明星がきらめく頃であったと伝えられています。お釈迦さまは王子として生まれ、いずれ国王となって善政もおできになるお方だったのです。しかし、お釈迦さまが悪魔の声として政治をしりぞけ、法を悟り道を伝えるという困難な道をお歩きになったのです。お釈迦さまは「すべての人間は、ことごとく仏性をもっている」と言われ、これを教えの基盤とされました。

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